
はじめに:「修行僧」の時代の終わり
2024年1月。日本の航空ファン、特に「マイラー」と呼ばれる種族の間に激震が走った。
日本航空(JAL)が、長年続いたステータス制度を根本から覆す新プログラム、「JAL Life Status プログラム」を開始したからだ。
これまで、JALの上級会員(JGC: JALグローバルクラブ)になるための条件はシンプルだった。
「1年間に50回乗る」か「5万FOP(フライオンポイント)を貯める」。
だからこそ、年末になると用もないのに羽田ー那覇を往復する「マイル修行僧」たちが空港に溢れた。
しかし、新制度はこの「短期集中型の努力」を一切評価しない。
代わりに提示された基準はたった一つ。
「生涯で、あなたがどれだけJALに貢献したか」。
これは単なるルール変更ではない。
JALという企業が、「客の選別基準」を「移動する人(フロー)」から「資産を持つ人(ストック)」へと劇的に転換した、歴史的な宣言なのだ。
Vol.4では、この新制度の冷徹なロジックと、それが示唆する日本の「階級社会化」について解剖する。
修行僧の時代の終わり:なぜJALは「回数」を捨てたのか?
これまでの「JGC修行」は、航空会社にとって痛し痒しの存在だった。
- メリット: 空席を埋めてくれる(稼働率向上)。
- デメリット: 「一番安いチケット」で回数を稼がれるため、利益率が低い。
修行僧たちは、羽田-那覇の最安値チケット(ウルトラ先得など)を駆使し、単価およそ1万円以下で飛行機に乗る。
そして、一度JGCの資格(クレジットカード)を手に入れると、翌年からは「1回も乗らなくても上級会員」として、優先チェックインやラウンジのビールを享受し続ける。

JALの財務担当者は思ったはずだ。
「こいつら、コスト(ラウンジのビール代)の方が高くついてないか?」
対して、真の優良顧客(出張族や富裕層)は、忙しくて「修行」なんてしていられない。
「高い金を払ってビジネスクラスに乗っているのに、ラウンジは安いチケットの修行僧で満席」
この不公平感を解消し、「本当に金を落としてくれる人」だけを優遇する。つまり、客層の「浄化」こそが、新制度の裏の目的である。
[Column] 幻想のサバイバーシップ・バイアス
ここで多くの修行僧が陥る勘違いがある。
「JALの上級会員になれば、アップグレードされて元が取れる」
この考えは、典型的な「生存者バイアス」だ。
ネット上には「インボラ(無料アップグレード)された!」「CAさんに挨拶された!」という華やかな報告が溢れている。しかし、それは何十万人もの会員のごく一部の幸運な事例に過ぎない。
大多数の会員は、ただ「優先搭乗ができる(しかし機内ではエコノミー)」だけの権利に、数十万円を払い続けている。
JALの新制度は、この「夢」を売る商法すらやめた。
「夢を見るな。現実(実績)を見せろ」
そう突きつけられた時、我々は初めて「マイルの魔法」から覚めるのかもしれない。
Life Status プログラムの全貌:資産家を優遇する「生涯実績」のロジック

新制度の核となるのが「Life Status ポイント」だ。
JGCに入会するための基準は「1,500ポイント」。
さて、この1,500ポイントを貯めるのがどれほど過酷か、計算してみよう。
Data Box: JGC制度の劇的ビフォーアフター
| 項目 | 旧制度 (〜2023) | 新制度 (Life Status) | JALの意図 |
|---|---|---|---|
| 基準 | 単年勝負 (Fly On Point) | 生涯累積 (Life Status Point) | 浮気防止 (Lock-in) |
| 必要コスト | 約50万円 (修行1回) | 約6,000万円 (カード決済のみ) | 富裕層への選別 |
| 航空機の利用 | 必須 (最低50回) | 不要 (カードのみで可) | 陸マイラーの囲い込み |
| ステータス維持 | JGCカード継続のみ | グレード制 (星の数) | 終わらない課金ゲーム |
| ターゲット | 時間のある暇人 | カネのある資産家 | 顧客の質的転換 |
この表を見れば一目瞭然だ。
かつては「時間と体力」があれば誰でも到達できた。
しかしこれからは、「圧倒的な資本力」がなければスタートラインにすら立てない。
獲得レートの現実
- 国内線: 1フライト = 5ポイント
- 国際線: 1,000マイル = 5ポイント
- JALカード決済: 2,000マイル獲得 = 5ポイント(約20万円決済相当)
もし国内線だけでJGC(1,500ポイント)を目指すなら?
1,500 ÷ 5 = 300フライト。
「なーんだ、300回か」と思ったあなたは感覚が麻痺している。
従来の「年間50回」なら、無理すれば1ヶ月で達成できた。
しかし、これは「生涯実績」だ。
普通の会社員が、年1回の帰省で往復(2回)乗るとして、達成までに150年かかる。
カード決済だけで達成しようとすれば?
1,500ポイント必要 ÷ 5ポイント × 20万円 = 6,000万円。
生涯で6,000万円をJALカードで決済しなければ、JGCへの扉は開かない。
これが「Life Status」の正体だ。
小手先の「修行」では絶対に届かない。
「一生JALに乗り続けるか、一生JALカードで生活費を切り続けるか」。
その覚悟(と財力)がある人間だけを通す、極めて狭き門なのだ。
サンクコスト(埋没費用)の誤謬:一度始めたら降りられない泥沼
なぜこれほどハードルを上げ、わざわざ既存顧客(特に古くからのJGC会員)の反発を招くような改変を行ったのか?
それは、JALが顧客との関係性を「フロー(その年の売上)」から「ストック(生涯価値:LTV)」に変えたかったからだ。
これまでの制度は「更新制」に近かった(実際にはJGCカードさえあれば永続したが、心理的には単年ごとの勝負だった)。
「今年はたくさん乗ったから偉い」「今年は乗らないから平会員」。
これでは、顧客は常に「今年はANAの修行をするか、JALにするか」を天秤にかける。浮気されやすいのだ。
しかし、「生涯実績」は積み上げ型だ。
一度積み上げたポイントは減らない。
「あと少しで3つ星(Three Star)になれる」
「今までJALに2,000万円使ってきた。今さらANAに乗り換えてゼロからやり直すのは大損だ」

この心理的メカニズムを、行動経済学では「サンクコスト(埋没費用)の誤謬」と呼ぶ。
投下したコスト(時間や金)が大きければ大きいほど、人はその対象から離れられなくなる。
たとえ、他社(ANAやデルタ)のサービスの方が優れていても、「過去にJALに払った2,000万円」が足かせになり、不合理な忠誠を誓い続けることになるのだ。
この「心理的ロックイン効果」こそが、JALの真の狙いである。
一度囲い込んだら、死ぬまで逃さない。
まさに「Life Status(人生の身分)」という名の通り、あなたの人生そのものをJALのB/S(顧客資産)に計上しようとしているのだ。
5つ星の階級社会:Pay to Win (課金ゲー) 化する航空ステータス
この新制度には、見えない「カースト」が存在する。
獲得ポイント数に応じた「Star Grade(星の数)」だ。

- 1 Star (1,500 pt〜): JGC会員の入り口。旧制度での「平JGC」。
- 2 Star (3,000 pt〜): ラウンジが恒久的に使える。ここからが本番。
- 3 Star (6,000 pt〜): 上級会員としての真のメリット(優先予約など)が出てくる。
- 4 Star & Five Star (12,000 pt〜): 選ばれし頂点。マイル有効期限の撤廃や、家族へのステータス継承など、王族のような特権が付与される。
ここで重要なのは、この星を稼ぐための「加速装置」として、JALが「非航空系サービス」を大量に投入したことだ。
飛行機に乗るだけでは限界がある(体がもたない)。
だから JAL はこう囁く。
「JALの住宅ローンで家を買いませんか? 一気にポイントが貯まりますよ」
「JALふるさと納税を使えば、税金を払うだけで1つ星に近づきますよ」
「JALマイルで投資信託を買いませんか?」
つまり、JALがこれからの時代に求めている「最高の上客」とは、出張で飛び回るサラリーマンではない。
「JALの住宅ローンで家を買い(数千万円)、JALでんきで電気をつけ、JALカードでスーパーの買い物をし、たまの休日にJALのファーストクラスでハワイに行く人」だ。
これは、ゲームの世界で言う「Pay to Win(課金すれば勝てる)」のルールそのものだ。
かつてのような「工夫と努力と根性(回数修行)」でステータスをもぎ取る「プレイヤースキル」の余地は消えた。
あるのは「いくら課金したか」という、冷徹な資本力の勝負だけだ。
これはもはや航空会社ではない。
Vol.2で見た「アメリカ型モデル」の完成形、すなわち「生活インフラを支配する総合金融業(フィンテック企業)」への脱皮である。
悪夢のシナリオ:ANAも「ストック型」に追随するのか?

ここで我々が最も恐れるべきシナリオがある。
「JALがやったなら、ANAもやるのではないか?」
歴史的に見れば、ANAとJALは互いの施策を徹底的に模倣し合ってきた。
しかし、今回の「Life Status」に関しては、ANAは今のところ静観している。
むしろ、あえて「SFC修行(年間50回)」のルートを温存することで、JALから溢れた「難民」を一手に引き受けようとしているように見える。
だが、油断は禁物だ。
もしJALの新モデル(ストック型)が経営的に大成功し、「高収益な優良顧客」だけで利益が出せると証明されてしまったら?
ANAの株主が黙っていないだろう。
「なぜウチは、利益率の低い修行僧をラウンジでタダ酒飲ませているんだ?」と。
その時、日本の空から「庶民が上級国民になれる夢」は完全に消滅する。
我々は今、その歴史的な分岐点に立っているのだ。
まとめ:修行僧の行く末
2024年のJALの改変は、「庶民の実力行使(修行)」によって上級国民へのパスポートを手に入れるルートを完全に遮断した。
これからは、「生まれながらの(あるいは経済的に成功した)上級国民」しか、サクララウンジの奥には入れない。
これは残酷だが、資本主義としては正しい姿への「正常化」でもある。
無理をして50回飛行機に乗るよりも、素直にファーストクラスの運賃を払う客の方が、どう考えても企業にとっては「偉い」のだから。
では、締め出された我々(元・修行僧予備軍)はどうすべきか?
残された道は二つだ。
- ANAのSFC修行に走る: ANAはまだ「年間50回(あるいは5万プレミアムポイント)」という、努力でなんとかなる旧来のルートを残している(今のところは)。
- 外資系(デルタなど)へ亡命する: クレジットカードを持つだけで上級会員になれる、アメリカ型の合理性に身を委ねる。
- JAL経済圏に魂を売る: 覚悟を決めて、住宅ローンも電気も全てJALに切り替え、数十年かけて星を目指す(Life Status)。
JALが閉じた扉の向こう側で、取り残された者たちの「民族大移動」が始まっている。
次回、その移動先であるANAの戦略を見ていこう。
彼らもまた、JALとは違うアプローチで、しかし確実に、巨大な「経済圏」を作ろうとしている。
次回、Vol.5。
「ANAの経済圏(マイル・エコシステム)の野望。なぜ彼らは『数』と『面』で生活を支配しようとするのか?」
(続く)


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