
はじめに:JALの「縦」と、ANAの「横」
前回(Vol.4)、我々はJALが選んだ「Life Status(上級国民の囲い込み)」という冷徹な戦略を見た。
それは「深く、狭く」顧客を選別し、一生涯の資産(LTV)を吸い上げる「縦」の戦略だった。
対して、ANA(全日空)が選んだ道は真逆だ。
彼らが目指すのは、「浅く、広く」。
一部の富裕層だけでなく、飛行機に一度も乗らない女子高生や主婦までもターゲットにした、巨大な「面(プラットフォーム)」の支配である。
「歩くだけでマイルが貯まる」
「動画を見るだけでマイルが貯まる」
「電気もガスも保険も、全部ANAで」
一見、これは「お得で親切なサービス」に見える。
しかし、その裏には、JALよりもさらに現代的で、ある意味で恐ろしい「監視資本主義(Surveillance Capitalism)」の野望が隠されている。
Vol.5では、ANAが構築しようとしている「マイル経済圏」の全貌と、彼らが本当に欲しがっているものの正体を暴いていく。
トロイの木馬「ANA Pocket」:移動データという新たな油田
ANAの戦略転換を象徴するのが、スマートフォンアプリ「ANA Pocket」だ。
「移動距離に応じてポイントが貯まり、ガチャでマイルが当たる」。
リリース当初、多くのマイラーはこれを「単なるお小遣いアプリ」と侮った。
しかし、このアプリの本質はマイルではない。
「位置情報(GPSログ)」の収集だ。

航空会社はこれまで、「空港から空港へ」の移動データしか持っていなかった。
「Aさんが羽田から札幌へ飛んだ」ことは分かる。
しかし、「札幌に着いた後、どこのホテルに泊まり、どこのラーメン屋に行き、どのコンビニでお茶を買ったか」までは分からなかった。
ANA Pocketは、この「空白の地図」を埋めるためのトロイの木馬だ。
「マイルが当たる」という餌(インセンティブ)を与える代わりに、ANAはユーザーの24時間365日の移動ログを手に入れた。
徒歩、自転車、電車、車。
これらは、JALが欲しがる「富裕層の資産データ」以上に、Googleのようなテック企業が欲しがる「行動データ(Behavioral Surplus)」の塊なのだ。
[Deep Dive] タダより高いデータはない
GoogleやFacebookは、Web上の行動履歴(検索、クリック)は支配しているが、「リアルな身体移動」のデータはまだ完全ではない。
「Aさんが『ラーメン』と検索した」のは分かるが、「実際にその店に行き、何分滞在し、その後どこへ向かったか」というオフラインのコンバージョンデータは、喉から手が出るほど欲しい情報だ。
ANA Pocketは、まさにそのミッシングリンクを埋める。
マイルという「報酬(ごほうび)」を与えることで、ユーザーに進んでGPSをオンにさせ、移動手段を申告させる。
このデータの価値は計り知れない。
「このエリアの電車移動者は、週末にアウトレットモールに行く傾向がある」
この分析結果があれば、不動産開発、広告配信、都市計画にまで応用できる。
ANAは航空会社から、「人流データを売るデータブローカー」へと変貌しようとしているのだ。
スーパーアプリ構想:生活のOS化とWeChatモデル

ANAの野望は、移動データだけにとどまらない。
彼らは本気で、あなたのスマホの「ホーム画面」を奪いに来ている。
それが「ANAマイレージクラブアプリ(スーパーアプリ版)」だ。
- ANA Mall: 楽天市場のようなECサイト。
- ANA Pay: PayPayのような決済手段。
- ANAでんき: 公共料金。
- ANAの保険: 金融商品。
これら全てをひとつのアプリに詰め込み、「起きてから寝るまで、一歩もANA経済圏から出ずに生活させる」。
これが彼らのゴールだ。

なぜWeChatやPayPayを目指すのか?
このモデルの教師役は、中国のWeChat(微信)や、ソフトバンクのPayPayだ。
彼らが証明したのは、「決済と生活サービスを握った者が勝つ」というルールだ。
航空券の購入は、せいぜい年に数回だ(接点頻度が低い)。
しかし、コンビニでの決済(ANA Pay)や、毎日の歩数チェック(ANA Pocket)は、毎日行われる(接点頻度が高い)。
マーケティングにおいて、「接触頻度(タッチポイント)」の多さは信頼と習慣を生む。
「毎日ANAのアプリを開く」という習慣さえ作ってしまえば、あとはそこで何を売ってもいい。
飛行機を売らなくても、保険を売ればいいし、投資信託を売ればいい。
ANAが航空事業の赤字に苦しんだコロナ禍で学んだのは、「飛行機一本足打法の脆さ」であり、その答えがこの「スーパーアプリによる多角化」だったのだ。
Data Box: JALとANAの戦略比較
| 項目 | JAL (Life Status) | ANA (Economic Zone) |
|---|---|---|
| ターゲット | 富裕層・資産家 (High Net Worth) | 大衆・若年層 (Mass Market) |
| 戦略の方向 | 縦 (Deep): 生涯LTVの最大化 | 横 (Wide): 接点頻度の最大化 |
| キーワード | ステータス・伝統・排他性 | ガチャ・ゲーム・プラットフォーム |
| 欲しいもの | 顧客の「資産 (Wallet)」 | 顧客の「行動 (Data)」 |
| 類似モデル | アメックス・ダイナース | 楽天・PayPay・WeChat |
「マイルガチャ」の心理学:変動報酬による行動変容
ANAの戦略で特筆すべきは、「ゲーミフィケーション」の巧みさだ。
特に「ガチャ(ランダム報酬)」の導入は、マイレージプログラムの歴史における発明と言っていい。
従来のポイ活は「100円で1ポイント」という「固定報酬」だった。
しかしANA Pocketのマイルガチャは違う。
「1等の10,000マイルが出るかもしれないし、ハズレの1マイルかもしれない」。
行動心理学、特にBFスキナーの実験によれば、動物(人間含む)が最も行動を強化されるのは、報酬が毎回貰える時ではない。
「貰えるかどうかわからない時(変動報酬)」に、脳は最もドーパミンを放出し、その行動をやめられなくなる。
パチンコやソーシャルゲームと同じ依存性(アディクション)のロジックを、ANAはマイルの世界に持ち込んだ。
結果、多くのユーザーが「数マイル(数円)」のために、毎日アプリを開き、広告動画を見せられ、位置情報を提供し続けている。
ANAにとって、これほど安上がりで効率的なデータ収集マシンはない。
[Column] デジタル封建制:我々は「データ農奴」である
この構図を社会学的に見ると、中世の「封建制(Feudalism)」に似ている。
- 領主 (ANA): プラットフォーム(土地)を提供する。
- 農奴 (ユーザー): そこで活動し、データ(作物)を納める。
- 報酬 (マイル): わずかな食料(ポイント)として還元される。
農奴は、土地(プラットフォーム)から離れては生きられない。
「ANA経済圏」に一度住み着いてしまったら、他の経済圏(JAL村や楽天村)に引っ越すのは面倒だ。
だから我々は、領主様が「改悪(年貢の引き上げ)」を行っても、文句を言いながらそこに留まり続ける。
「歩くだけでマイルが貰えるなんて最高!」と喜んでいるが、実際には「歩くことによってデータを生産させられている(労働させられている)」ことに気づいていないのだ。
2900万人 vs 4000万人:「数の暴力」でプラットフォームを制圧せよ
ANAがなぜここまで「大衆化」に舵を切ったのか。
それは単純に、JALとの規模の差(数の暴力)で勝ち切るためだ。
- ANAマイレージクラブ会員数: 約3,800万人 (2023年)
- JALマイレージバンク会員数: 約2,900万人
すでに1,000万人近い差がついている。
この「会員数の差」は、プラットフォームビジネスにおいて決定的な意味を持つ。
提携店(加盟店)の立場になって考えてほしい。
「JALカードで払えます」と言う店と、「ANA Payで払えます」と言う店。
どちらに加盟したいか?
当然、ユーザー数が多い方だ。
ユーザーが増えれば加盟店が増え、加盟店が増えればさらにユーザーが増える。この「ネットワーク効果」が働き始めると、2位以下の企業は太刀打ちできなくなる。
かつてPayPayが巨額の「100億円あげちゃうキャンペーン」でQR決済市場を制圧したように、ANAは「マイル」をばら撒くことで、航空系決済プラットフォームの覇権を握ろうとしているのだ。
JALが「高貴なブランド」を守っている間に、ANAは泥臭く「実利とシェア」を取りに来ている。
アルゴリズムによる統治:自由意志の消滅と「便利な監獄」

ANAのスーパーアプリが完成した時、我々の「旅行」はどう変わるのか?
おそらく、自分で行き先を決めることはなくなるだろう。
「佐藤さん、今週末は北海道に行きませんか? あなたの過去のデータから、札幌ラーメンが食べたいはずです。今ならマイルでホテルが無料です」
AI(アルゴリズム)が、あなたの欲望を先回りして提案してくる。
それは一見「便利なコンシェルジュ」だが、実際には「企業にとって都合の良い(在庫が余っている)場所」へ誘導されているだけかもしれない。
しかし、マイルという「アメ」をぶら下げられた我々は、その提案を断れない。
「お得だから」という理由で、自分の意志ではなく、アルゴリズムの指示に従って移動する。
これを「アルゴリズムによる統治(Algorithmic Governance)」と呼ぶ。
JALが「身分(Status)」で人を支配するなら、ANAは「利便性(Convenience)」で人の自由意志を奪う。
どちらが幸せなのか、あるいはどちらも地獄なのか。
我々は、そんな時代の分岐点に立っている。
まとめ:我々は「養分」になるのか
それでも、我々マイラーはこの甘い汁(ポイント)を吸うのをやめられない。
なぜなら、そこには「マイルで旅をする」という、抗いがたいロマンがあるからだ。
監視されようが、データ資源にされようが、ハワイ行きのチケットが手に入るなら、喜んでガチャを回す。
それが、現代の「ポイント中毒者」の悲しき性なのだ。
さて、ここまでVol.5回にわたって、マイルの歴史と現在地を見てきた。
最終回となる次回、Vol.6。
「来るべき『大改悪時代』と、マイル2.0の生存戦略」について語ろう。
インフレ、改悪、座席枠の縮小。
この先細りの世界で、我々はどう戦い、どう生き残るべきか。
(そして、なぜそれでも私はマイルを貯め続けるのか)
その答えを提示して、この長い連載を締めくくりたいと思う。
(続く)
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